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石井吉徳著:石油最終争奪戦-世界を震撼させる「ピークオイル」の真実(日刊工業新聞社2006/7)

<内容は、理解しにくい「石油ピーク」の意味をEPR(エネルギー利益比)で解説し、今の石油問題の重大さを警告するもの。脱石油の基本戦略は「脱浪費、地方分散」で「自然と共存」すべき、とする悲観的楽観論。下記で始まる>

 国際的な石油争奪戦、その本質は「情報戦」である。先ず「石油がどこにあるの」を知らねばならない。石油権益の確保は、国家間の「外交戦」でもある、これに欠かせないのが情報である。
東西の冷戦のさなか、アメリカの石油価格の支配力がソ連経済力を削いだが、その背景にはアメリカは中東における絶大な力があった。終戦直前の1945年2月、アメリカのルーズベルト大統領は、石油と引き換えにサウジアラビア王族の安全を保障したという。この関係が、その後の両国の石油外交の基本となった。



 国際的な「経済戦」に、アメリカはIMF,世界銀行、WTOなどの仕組を用意した。新たな植民支配のためともいわれるが、その大義名分は、第三世界の開発、緑の革命つまり画一型の農業の促進などであった。だが、近年のWTOに対する批判のように、それが援助される側の国民に幸せにしなかった。このように、戦後半世紀の世界の仕組みが、今問われている。
 切っ掛けは「石油ピーク」である。石油の生産が、旺盛な需要を満たせなくなった。私は1966年、日本の石油争奪戦の尖兵として、インドネシアに赴いた経験がある。戦後20年を経過してもまだ残る、欧米の影響力を思い知らされたものである。私の仕事は地図探し、その後の探査活動の予備調査であったが、国からは組織的な情報も外交の支援もなかった。日本は最初から、石油争奪戦に負けていたのである。その後、地震探査調査では、測量班が海賊に襲われ、一人が命を落とした。日本は安全確保すらままならなかった。後で分かったが、既に世界の石油発見は1964年にピークを向かえていたのである。日本は峠を越してから、ようやく目を世界に向けたこととなる。 1970年が、アメリカの「石油ピーク」であったが、これは1973年の第一次石油ショックの遠因となった。これを機に、石油産油国OPECの力が大きくなり、1979年再びショックを向かえた。世界に石油を巡る力学は、根底から変わった。石油は文明の「生き血」である、その石油に限りが見えてきたからである。最後の、しかし長い石油争奪戦が始まったと言って良かろう。
フセインは1990年、クエートに侵攻した。そして1991年の湾岸戦争が勃発する。2001年9月11日の同時多発テロ、その報復としてアメリカのアフガン爆撃、そして2003年3月、イラク戦争が始まった。
 その大儀は当初、大量破壊兵器の一掃とあったが、結局それは無かった。だがアメリカは計画を続行したのである。その大儀名文は、イラン国民の自由、民主化となった。2006年になって、ようやく日本の自衛隊は撤退することになったが、このイラク戦の評価は、歴史を待つしかなかろう。
 ダブルスタンダードは国際紛争の付き物だが、このような「情報戦」での最大の武器は、情報そのものである。だが武力が影の切り札なのは国際的な常識であるが、日本はそうは行かない、論理にも弱い。その為であろうか、日本は遂に和製メジャーを作れなかった。

 そして、今もイラクで血が流される。今はイランがきな臭い。これを更に大きな構図でみると、イスラム圏とキリスト教圏の積年の相克が浮かんでくる。何世紀もの雌伏の後、イスラム圏が石油減退を機に浮上したのであろうか。限界が見える資源がその背景にあるが、その余波は南米諸国にも及びつつある。この国際的な文明の一大転換期、日本はどう対応するのか。
21世紀は、単なる世紀の変わり目ではなかった。地球はやはり有限、自然にも限りが有ったのである。構造的な石油の高騰がその証左だが、未だにエコノミストはそれを認めよとせず、技術者も技術至上主義である。そしてメディアには、殆ど連日のように、日本のエリート指導層のスキャンダル、志の喪失が報道される。
 もう「百年河清を俟つ」のは止めよう。元々、国民が主役なのである。世界の激動の本質を、貴方任せにせず自ら学び、日本の未来を構想するのである。幸い欧米も暗中模索の状態にある、これを明治以来の欧米追従、呪縛から脱するチャンスである、と考えるのは楽しいことである。
日本は四方海に囲まれた75%が山岳の島国、だが2000kmもあるかなり大きな島弧である。海岸線の長さは世界でも有数であり、温暖な気候にも恵まれた国である。水は豊富、まだ自然も豊かである。本来、大陸である欧米に教わることは少ない。
 これからの要は「脱浪費」、「無駄をしない」ことである。そして「もたいない」を胸に、日本独自の脱浪費社会を構築するのである。無駄をしないは、生活水準は落すこととならない。何故なら無駄とは要らない、という意味だからである。スリムだが強靭な「自然と共存する国家」を育てたい。本書は、そのための「悲観的楽観論」であり、21世紀の指南書である。
by tikyuu_2006 | 2006-07-14 09:29 | 私の文、HP
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