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立体農業  “人間の後には沙漠あり” 

立体農業 庭しんぶん・庭プレス社2009年10月号社説

“人間の後には沙漠あり”  『Tree Crops: A Permanent  Agriculture』という本がある。
アメリカ合衆国の農学者ジョン・ラッセル・スミス(John Russell Smith)が1929年に書い たものだ。この中で彼は、山間部や丘陵地帯などの傾斜地での鋤耕(じょこう)農業を鋭く批判する。

森林を伐採し農地を拓く。鋤で耕し、穀物を作る。しかし こうして裸にされ、耕された土は徐々に雨に流され、風で吹き飛ばされる。“土壌流失”と呼ばれる現象である。その結果やがてそこは表土を失い不毛の地と化 す。中国で、シリアやギリシャで、そしてグアテマラで、人類の農耕による土壌破壊は世界中で引き起こされてきた、と著者は述べる。
 この本が出版された当時、合衆国でも土壌流失は深刻だっ た。ヨーロッパで栽培される穀物(コムギ、オオムギ、エンバク、ライムギなど)は地面を覆って、その根は土壌をしっかり抑える。しかし合衆国で栽培される トウモロコシ、ワタ、タバコなどの作物の根は、土を捕捉する力が弱く、起伏のある農地で栽培すると、土壌流失が起こる。
 「最近インデアンの手からー彼等は地力を破壊しなかったー無理矢理に奪取したあの新開拓地中の新開拓地なるオクラホマ州ですら百萬哩の峡谷を持ち(引用者・注1)、茫漠たる沃野が、荒廃に帰して放棄せられた」。
 1930年代、合衆国中西部の農業地帯は“ダストボウル (dust bowl)”の時代を迎える。日照りにより乾燥しきった土は強風に舞い上がり、巨大な土煙となってはるか大西洋まで吹き飛ばされていった。表 土を失い痩せ地と化す農地。農民たちはそこを棄て、遠隔の地への移住を強いられる。カリフォルニアを目指すオクラホマの移住者たちの苦難の旅は、ジョン・ スタインベックの小説「怒りの葡萄」(1939年)でリアルに描かれている。
 スミスは言う。「田園流失、殊にアメリカに於いては、そ れが凡ゆる荒廃の原因の中で最大のものである。それは文明の根底を揺るがし、生命そのものの基礎を危くする。・・・流失してしまった田園は永久に帰ってこ ない。さればこそ旧大陸では“人間の後には沙漠あり(引用者・注2)”という諺がある。然らば之に対して何等かの講ずべき手段があるのであろうか?」。
 こうして著者が提案するのが、傾斜地における鋤耕農業の廃止と、tree crops(樹木作物)、特に穀樹を栽培する“樹木農業”の振興である。穀樹とは、クリ、カシ、クルミ、ペカンなど堅果を着ける樹木をいう。
 「丘陵地帯で食糧生産の自然的機関となるものは、小麦そ の他の草類ではなくて、実は樹木であることがわかるであろう。一本の樫の木はよく百ポンド乃至一トンの団栗(立派な炭水化物食品である)を生産する。或る 種の胡桃(Hyckory)やペカン(Pecan)は樽で量るほどの堅果を供給する。胡桃は二石からの果を産出する。又家畜の飼料としてもっとも適当な豆 を実らす樹(引用者・注3)がある。この豆を飼料として用ふれば、今日のまぐさを使用するよりも遥かに、一エーカー当たりの肉若しくはミルクの産出量が増 収されるであろう」。
 彼によると、樹木農業の優れた点は以下のようである。

 ① 穀樹の産する堅果は穀物と比較して、食糧あるいは飼料として栄養的に遜色なく、またはそれを凌ぐ
 ② 堅果の収穫量は高い
 ③ 鋤耕の必要がなく、土壌流失の心配がない
 ④ 急な勾配、岩石が多いなど穀類などの耕作に不適当な場所に適合している
 ⑤ 穀物、牧草、馬鈴薯などを台無しにしてしまう程の旱魃でも、さして害がでない
 ⑥ 接木や芽接の方法で、優良な性質を持った個体を簡単に増殖させうる

 著者はさらに“二階農業”を提案する。二階農業とは、樹 木の下に一年生作物を植え付けることである。このことで一階農業から得られるよりもはるかに大きな収穫が得られる。この種の農業は既に地中海方面では実際 に行われていると、著者はスペイン・マジョルカ島の例を紹介している。
 この島の耕地の90%は樹木の下に一年生作物を植え付け ている。例えば、イチジクの樹の下で、コムギ、クローバー、ヒヨコマメなどが規則正しく輪作されている。クローバーは二年間作付けられ、二年目にヒツジが 放牧される。コムギもイチジクも最大限の収穫は得られないが、双方とも75%程の収穫があり、併せて百五十%の成績が挙げられる。
 さらにスペインやポルトガルのある地方の様子を以下のように描写する。
 「畑の中に何処でも冬青樹(引用者・注4)が芽を出す と、大切にしてそのまま其処に成長させる。その木の周囲や下には、小麦と豆、大麦と牧草等が、之も機械の力を借りずに、自然のまま播付けてある。此の木と 草との合作は実に美しい公園のやうな光景を現出している。穀物を作ることが樫樹をして団栗を多量に実らせる結果を生じ、また穀物を収穫した跡へは豚が代り に入れられて団栗を拾ひ集める」。

“乳と蜜の流れる郷”

 この著作は1933年、『立体農業の研究』として翻訳出版された(恒星社発行)。翻訳者は賀川豊彦・内山俊雄である(上記の引用はこの翻訳書から)。賀川(注5)はこの本の冒頭に「序論 日本における立体農業」を寄せている。
 「高層建築は上に上に伸び上り、街路はコンクリートによ つて舗装せられ、車の轍にはゴムが捲かれ、凡ての食物は、その原形を損ねて食膳に供せられ、自然が与えてくれる凡ての美観と、土が保障してくれる安住の聖 地は、文明生活から奪ひ去られんとしている。都会には失業者が満ち溢れ、土を見捨てた者に刑罰が酬いて来ている。山林は荒れ、荒野は放擲され、徒らに盛場 に浮浪者が群がる。私が文明に対して攻撃したいのは全くこの点にある」。
 賀川は都市の巨大化に反対し、「私は森林と、畑と、果樹 園を小都市の傍らに並べておきたい。出来ることなら、小都会をも田園都市の形において設計したい」と述べる。そしてさらに疲弊した山間の農村部では、ラッ セル・スミスが提案する“立体農業”こそ実践されなければならないと主張する。彼は日本の林野面積が2289万町歩(昭和2年)にも上ることを指摘し、 「日本の面積はけして狭くはない。ただ山を有用に食糧資源にしようとしていないことが我々の誤謬である。我々の理想は木材と食糧と、衣服の原料が、三つと も山からとれるようにすることである」と述べる。
 聖書の「創世記」。エデンの園。蛇に誘惑されたイヴはそ こに生える禁断の“知恵の樹”の実を食べてしまう。神の怒りに触れたアダムとイヴは楽園を追われ、永遠に“生命の樹”から隔離される。こうして平面を這う ばかりの蛇が教えた“平面農業”が、追放された人類の文明を支えるものとなる。それ以降人間は樹を次々と切り倒し農地とし、やがてそこは砂漠化した。
 「今日バビロンの平野は、一面の大沙漠である。然し何千年か昔、そこが蜜と乳の流るる大森林で蔽われていたことは、世界の学者の意見が一致している。そしてこの大森林を沙漠に換えてしまつたのは、蛇が女に教えた農業の結果である」。
 キリスト者であった賀川の主張は、“生命の樹”の再生、すなわち“立体農業”の確立だった。
 賀川は全国を歩くうちに、日本列島の先住民族(縄文人)がドングリやトチの実を主要食物としていたこと、そして今もなおその風習がよく保存されている地方があることを知る。
 「ところが、この貴い栃の木を、最近はどしどし伐り払っ て、百年から二百年の木を一本八円位に売り払つていることを聞いて、私は全く悲しくなつてしまつたのである。・・・然し、どうせ山奥の他の木をあまり育て ることが出来ない所であれば、さういう大きな木を四五本持つて居れば、一年中それだけで食へる訳である。・・・山はそれで人間の食糧資源となり、洪水は少 なくなり、美観は増し、人間の安息所がそこに得られる訳である」。
 賀川のいう“立体農業”は単なる樹木農業ではない。より総合的、複合的な農業経営を意味する。
 「然し立体農業は、立体的作物だけを意味しない。地面を 立体的に使はうという野心が含まれている。我々は、樹木作物の間に蜂を飼ひ、豚を飼ひ、山羊を飼ふことは容易であり、その傍らを流れる小川に鯉を飼ふこと はさう困難ではないと思つている。その他、土地を有効に、多角的にまた立体的に組合わせて日本の土地を利用すれば、今まで棄ててあつた日本の原野が充分に 生き返ると私は思つている」。
 この本が翻訳されたのは1930年(昭和5年)に始まる 農村恐慌の只中だった。この時、日本農業の二大商品だった米と繭の価格は急落、一方現金収入を求めて都市に出稼ぎしていた多くの農民は失業し帰農せざるを えなくなった。さらに31年、34年の二度にわたる東北の冷害が追い討ちをかけた。農村は貧窮の淵に喘いでいたのである。賀川は『立体農業の研究』と同時 期に(1935年)出版した小説『乳と蜜の流れる郷』(復刻版・家の光協会・2009年)の中で、稲作と養蚕へのこだわりが強い当時の山村農業を克服し、 より“立体的な”農業経営をめざす農民たちの姿を描いている。
 東京の「武蔵野農民福音学校」(注6)をクルミの苗を求めて訪ねた主人公の農村青年に、そこの教師(賀川の分身であろう)は次のように語りかける。
 「ぜひあなたが、疲弊した農村を救おうと思っていらっ しゃるなら、ヤギをお飼いなさいよ。接ぎ木したクルミでも、まだ四、五年は待たなくちゃならんですからね。それまで食いつなぐにはヤギを飼うのがいちばん いいですよ。どんなに大きな飢饉があっても、野山には雑草が無いっていうことは、めったにありませんし、山の木の葉がついていないということは、まあ ちょっとないですからね。困っている農村にヤギがたくさんおれば、飢饉がきても絶対に大丈夫ですよ」。
 やがて主人公の青年たちは、桑畑にクルミを植え、山で拾ったドングリをニワトリやブタの餌にし、川でコイを飼い、林の中でヤギやミツバチを飼い、シイタケを養殖し始める。

“鶏で日給、豚で月給、椎茸と栗で年俸、山林で養老年金” 
           
 賀川の提案する立体農業を実践し、その体系化を試みた農 民の一人に久宗 壮がいる(私の義父)。久宗は1907年、岡山県久米町に生まれた(注7)。地元の農学校を卒業後、(財)大原奨農会農業研究所(岡山大学資源生物科学研究所の前身) 所長の近藤万太郎(種子学)の助手を5年間務める。そんな久宗が岡山県津山での賀川の伝道説教を聞いたのは、1930年5月のことだった。貧しい山村に生 まれ、若くして弟が肺結核を患い、貧乏のドン底につきおとされていた久宗は、「不幸に打ち克つことが人生最大の幸福である」と説く賀川に大いに励まされ る。賀川は、久宗の面会に快く応じ、立体農業の研究を勧める。この時以来久宗は故郷で農業に従事しながら、1985年に没するまで立体農業の研究に没頭す る。
 1950年、それまでの実践の成果を踏まえて、久宗は『日本再建と立体農業』(日本文教出版)を出版した。
 終戦直後、農村では「通貨膨張」と「食糧不足」により “百姓成金”が各地に出る程だった。しかし久宗はこの好況は一時的なもので、早晩不況に暗転するだろうと予測する。それは安い外国産農産物の輸入がまもな く本格化するに違いないと考えられるからだ。その備えとして彼は、農家が“拝金主義”から脱却し、自給経済に立脚した農業経営を確立しなければならないと して、こう述べる。
 「そうなればこそ、私は立体農業の確立こそ、明日の農村再建にもつとも大きな使命をもち、やがて農村の安定と高い生産文化をもたらし、日本再建への明るい途に通ずるものであることを確信する」。
 この著作の前半では、日本の農村が窮乏化する原因が分析される。
 彼が挙げる日本の農村が窮乏化する自然的災厄、人間的災厄は以下のようである。

・自然的災厄
  山岳農業の不振/耕地の狭小/人口過剰/周期的天災
・人間的災厄
  無畜農業/米麦一辺倒農業/交換経済中心の経営/若い農民が夢をもてない/農村の封建性/農民の迷信好き/土地の利用度が低い/共同心の欠乏/農民教育の貧困/無知と研究心の欠如/食生活の誤り

 これらの「災厄」を克服するものとして、立体農業が提唱される。
 「立体農業は単なる山岳農業ではない。多角形農業でもも ちろん無い。粗放的な略奪農業では断じてない。またいわゆる樹木農業でもないことは明らかである。立体農業はそれらを一切ひつくるめて、あらゆる山野、傾 斜地、空地、廃地、未開拓地を乳と蜜の流れる理想郷とする理想農業である。愛土農業である。」
 彼は“稼ぐ農業”から“食える農業”の転換を目指す。それは“鶏で日給、豚で月給、椎茸と栗で年俸、山林で養老年金”というように、山村の立地を最大限に活用した「有畜複合立体農業」であった。
 
そして新しい“飢饉”の時代へ 
              
 賀川や久宗は繰り返し、飢饉の恐ろしさを警告した。しか し久宗の著作が出てまもなくの50年代半ば、日本の農業は米の完全自給を達成した。冷害も克服されつつあった。耐冷性品種の開発、保温折衷苗代の普及、水 管理の合理化・・・。これらはあの“百花繚乱”の時代の官民一体となった研究の成果であった。
 そして21世紀初頭の今。まもなく新しい、そして深刻な “飢饉”がやってくる。“輸入食糧ゼロの日”の到来である。それは“百花繚乱”の時代を圧殺した日本の農業がいつか直面しなければならない宿命であろう。 終戦直後、久宗は輸入食糧の出現に強い危機意識をもった。しかし歴史は反転したのだ。まもなく立体農業の真価があらためて明らかになる日がやってくるに違 いない。
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by tikyuu_2006 | 2012-08-06 21:39 | 日本のPLAN-B
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